竹中半兵衛(その一生)③
■ 軍師とは
竹中半兵衛はどんなタイプの軍師だったのだろうか。
そのことを考える前に、まずは軍師とはどういう役割を担ったのかということについて見ておこう。
私たちは、今日、一般に、竹中半兵衛、黒田官兵衛、山本勘助、直江兼続などの、戦時中において大将の傍らにあってこれを補佐する役割を担ってきた人のことを軍師と呼んでいるが、この言葉は戦国時代にはなかったといわれている。近世において軍学が発達する中で生まれた言葉である。
(竹中半兵衛画像)
武田信玄における山本勘助、秀吉における竹中半兵衛、黒田官兵衛、伊達家における片倉小十郎、上杉景勝における直江兼続などが軍師の典型だろう。
戦国時代において、外交面での補佐者で有名なのは、今川家の太原雪斎、毛利家の安国寺恵瓊などであり、内政面では、秀吉の側近、石田光成や徳川家康の懐刀、本多正信などをあげることができる。
もっとも、戦国時代には、まだ内政、外交、軍事といった役割分担がそうはっきりと区別されていたわけではなく、これらは渾然一体の場合も多かったから、外交、内政をも視野に入れて大将を補佐する軍師も当然のことながら存在した。
■ 呪術的軍師と参謀的軍師
時代の流れの中で、軍師の役割をみていくと、呪術的軍師と参謀的軍師に分けることもできる。
呪術的軍師とは、気象条件を見極めた上で、出陣に際しての儀式を執り行なったり、戦闘の日程や方角を占って戦勝祈願をする、凱旋時には大将の傍らにあって首実検など、さまざまな儀式を行う者である。
まだ、迷信を重んじる戦国初期にあっては、軍団の戦意を高めるために、このような軍師の存在は不可欠だった。
参謀的軍師は、まさに大将の傍らにあって、軍事行動について大将を補佐する者のことであり、そういう存在が軍師という名にふさわしい。
軍師の役割として大将を補佐して戦そのものを指揮することもあるが、むしろ、戦を有利に進めるために敵方への調略を行うのも軍師の重要な役割である。戦いはこの調略によって、あらかたの帰趨は決しているともいえる。
■ 半兵衛はどんな型の軍師だったのか。
半兵衛も官兵衛も、典型的な参謀的軍師だったといえるだろう。両者は秀吉の直属の部下ではない。信長から派遣された寄騎だった。信長の部下として陣中にあって秀吉の補佐をしたのである。
2人とも敵方への調略を得意とした。例えは宇喜多直家の調略などその典型だろう。戦術面では、半兵衛が得意としたのは、稲葉山城を急襲してこれを落としたことにみられるように、奇襲戦法が得意だったようだ。
奇襲戦法は当然ながら相手方に知れれば失敗におわる。周到な事前準備と情報の遮断、時宜に応じた的確な判断と果断な行動が求められる戦法である。
官兵衛が得意としたのは持久戦だった。三木城や鳥取城の兵糧攻め、高松城の水攻めを秀吉に進言したのも官兵衛である。兵糧攻めも水攻めも城の中に敵方の進入を許せば成功しないから、余程に物理的、精神的に完全な外界との遮断が前提となる。物理的な面では土木工事の技術がものをいう。秀吉が土木工事に関するセンスが抜群だったといわれるが、官兵衛も築城の名人であり土木に関する豊富な知識をもっていた。
(黒田官兵衛画像)
「晋遊舎 黒田官兵衛」(→紹介ページ)の中に「二兵衛がもし戦ったら」という、渡辺大門という歴史研究家が書いたこんな記事がある。紹介しよう。
仮に、半兵衛が官兵衛の城を急襲したならば、わずかな時間で乗っ取ることができたと予測できる。しかし、時間の経過とともに、有利になるのは官兵衛の方ではないだろうか。
おそらく、官兵衛はいったん撤退しつつも、すぐに半兵衛の城の回りに付城を築くであろう。また、周囲に川などがあれば水攻めを敢行するかもしれない。さらにその間には、周囲の有力な領主らを説得し、味方につけるに違いない。
しかし、互いに名将であることは違いない。また、そのときの状況によって戦いが左右されることはいうまでもない。
結論をいえば、播磨、備前、美作という境目の地で、官兵衛は浦上、宇喜多、赤松などの大名と調略戦を繰り広げたことから、官兵衛のほうが経験的にも1枚上手ではなかったか。いずれにしても「2人がもし戦えば」というテーマは、誠に興味が尽きないところである。
なんとなく、短絡的な感じがしないわけではないが、ありえないことながら、本当に2人が戦ったらどのような駆引きが行われ、どのような結末を迎えたかを考えるみることも、両者の軍師としての魅力に迫る1つの手法となりうるかもしれない。
竹中半兵衛(その一生)④に続く
(→より詳しくはこちらのページ参照)
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