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第5回放送「死闘の果てに」-26.2.2ー(その④) - 軍師官兵衛-NHK大河ドラマ-プラットホーム

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第5回放送「死闘の果てに」-26.2.2ー(その④)

第5回放送「死闘の果てに」-26.2.2ー(その③)から続く

■ 赤松政秀との決戦

 話があらぬ方向にそれてしまいました。本編に戻りましょう。

 松寿丸(のちの黒田長政)の誕生、武兵衛とお国の事実上の婚約など黒田家にもうれしい出来事が重なり、官兵衛も領民に慕われ、政職からも信頼される領主、家老として成長していきますが、ときは戦国時代、そんな平穏な日々がいつまでも続くことはありません。
 永禄12年(1569年)5月、またもや、赤松勢が攻めてきました。

■ 青山の合戦

 まずは青山合戦。ドラマでは藤村志保のナレーションで1行。「またもや、赤松勢が攻めてきたが、官兵衛は奇襲戦法でこれをしりぞけた」だけでした。
 しかし、なぜ、こう幾たびも赤松政秀が小寺氏を一方的に攻めてくるのか。小寺氏から赤松氏を攻めるということはないのか。そこらの関係がドラマからはあまり見えてきません。
 戦国時代だから他国を侵犯しようとするのは日常茶飯事のことだとか、赤松はもと播磨の守護職だったから昔の栄耀栄華を取り戻そうと、隣国の小寺氏を侵犯しようとしたのだとかだけでは十分な説明とはいえません。

 ドラマでは、青山合戦、土器山(かわらけやま)合戦を、赤松政秀と小寺政職の乾坤一擲、最後の決戦のように描いていますが、私の知る限り、小説本の中で、この争いをそんなに大きく取り上げたものは少ないのです。
 試みにあげれば、吉川英治著「黒田如水」、司馬遼太郎著「播磨灘物語」、火坂雅志著「軍師の門」、上田秀人著「月の武将 黒田官兵衛」、岳宏一郎著「軍師官兵衛」、いずれも青山・土器山合戦について、あまり詳しく触れてはいません。
 
 私の知る限りでは、浜野卓也著「黒田官兵衛」が、なぜ、この時期、こうも竜野の赤松政秀が小寺氏を攻めようとしたのか詳しく説明してくれています。
 そこで、長文にはなりますが、その該当箇所をここに引用しましょう。文中にある「三好」とは、三好三人衆のことで、この当時、足利義昭を奉じて上洛してきた信長に追い落とされ、淡路島あたりで虎視眈々と上洛の機会を狙っていました。
 

 永禄12年(1569)年、播州第一の兵力を持つ三木城の別所安治が、館野(竜野)の赤松政秀と謀って、御着城の小寺政職を攻めるとの情報が流れてきた。
 御着城内では、早速軍議が開かれた。
 「大した合戦にはなりますない」
 と官兵衛はいった。
 「三木城の別所どのが、本気になって我が小寺を攻めれば、三木城が手薄になります。さすれば、阿波、淡路を経て三好の大軍が、得たりと三木城を奪いましょう」
 「しかし、別所が三好と盟約を結んでのこと、とは考えられぬか」
 老臣、小河三河守がいった。
 「それはございますまい」
 官兵衛は自信をもっていった。
 官兵衛は、三木城下に多くのくさ(蝶者)をはなっている。しかし理論的に考えても、別所が小寺を攻めたとして、三好は得るところがない。三好が別所の後押しをすれば、小寺は必然的に西の毛利を頼む。そうすると、三好は毛利と向かい合わなければならないが、東から手強い織田軍が攻めてくれば挟殺されることになる。
 なんとか畿内を制しようと、この方面に軍を傾ける三好が、縁もゆかりもない別所を助けるだろうか。
 「別所どのは、播州一国の実力者としての声望を得るための出陣で、本気でこの御着城を攻略はしないでしょう。また、それができるとも思っていないはず」
 「しかし、西の赤松と約定の末、この小寺領を二分しようとするとなると・・・」
 「はい。確かに侮りがたいでしょう。しかし、こたびの合戦は、赤松側の働きでございます」
 官兵衛はその証拠を宿老たちに示した。
 小寺領をはさんだ東(別所)と西(赤松)であるが、様子を探ってみると、西から東へ向かう密使が多いということがあった。今日などは、小寺勢が城をでないこともあって、あからさまな伝令が次々と東に走っていった。
 「館野(竜野)の赤松政秀どのが、三木の別所どのの力を借りて、西播州の主となることを願う一念から起こした合戦と見受けました」
 既に述べたように、播州一国は東八郡が別所氏で、西八郡を御着の小寺政職、英賀(あが)の三木通秋、館野(竜野)の赤松政秀、上月の上月景高が領している。
 実は、別所も、小寺も、三木も、ひと昔前に播磨を領した赤松氏の支族であった。赤松氏はその昔、村上源氏より出て播磨の国千種川の中流の地域に住み、赤穂郡赤松の地名をとって赤松氏を名乗るに至った。
 赤松則村のとき、元弘の乱、続いて南北朝争乱が起き、則村は足利尊氏を援け、その功により播磨守護となり、さらにその子則祐のとき、美作、備前(岡山県)の守護となって勢威をあげた。
 だが、則村の曾孫満祐が、将軍義教を自邸で刺殺(嘉吉の乱)した後、誅罰されて一時赤松氏は滅亡。その後、赤松家の遺臣が、南朝(吉野朝)に奪われた神璽を取り戻す功を立てて、政則の時に再興された。
 しかし、赤松家の衰運はやみ難く、義祐の代には守護代の浦上氏に勢威を奪われそうになり、その支族が、前述のように三木氏その他に分離独立、互いにその主導権を奪おうと競合しているのが現状であった。
 だが、官兵衛のみるところ、これら領主たちの中で、抜きんでて播州一国を統一できる器量の持ち主はなかった。
 「おそらく、館野(竜野)の赤松どのが、東の別所どのと肩を並べたいとの一存で起こした合戦でありましょう。決して多くの犠牲を払ってまで、この御着城を陥落させようとの強い意思はございますまい。哀れなのは・・・無益な合戦で家を焼かれ、田を荒らされる領民たちです。」
 「それで」
 と、宿老の小河三河守がさえぎった。官兵衛の「領民のための政治論」はもうご免、といわんばかりの苦い顔である。
 「それでどうするのだ。我が小寺では」
 これも宿老の江田(ごうだ)善兵衛が問うた。
 「どうするもこうするも、赤松どのに、無益なことはおやめになるように・・・」
 「呆れた!頭を下げて頼むというのか!」
 「おろかなことを申されますな」
 官兵衛は、初めて声を高め、床を叩いた。
 「頼んでわからぬ相手には兵を動ずるほかはありませぬ。それがしが赤松どのをしりぞけてみせましょう」
 黙って聞いていた小寺政職が、
 「あいわかった。ここは官兵衛にまかせよう」
といった。


 当時、足利義昭が信長の助けを得て上洛し、室町幕府の再興を図ろうとしていましたから、赤松政秀もその勢いに乗じて、播磨で守護としての往年の勢威を取り戻そうと考えていたのは間違いのないところでしょう。
 そのためには播磨中央で勢威を張る小寺氏をなんとかしなければなりません。そこで考えたのが、東の別所氏との同盟でした。別所氏と赤松氏で西と東から小寺氏を挟撃すれば、たやすく小寺氏の領土を手中に収めることができると考えたのです。
 
 しかし、案に相違して、別所氏は一応は赤松側の提案を受け入れたものの、積極的な動きを見せようとしません。青山合戦でも、赤松、別所合同して小寺氏を攻めようという約束を、別所氏側は事実上反故にして動きませんでした。
 官兵衛はそこを狙ったのです。別所勢はまだか、まだかと浮き足立っているところに寡兵で奇襲をかけて、赤松勢を追い落としたのでした。


             第5回放送「死闘の果てに」-26.2.2ー(その⑤)に続く

         

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