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第5回放送「死闘の果てに」-26.2.2ー(その⑦) - 軍師官兵衛-NHK大河ドラマ-プラットホーム

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第5回放送「死闘の果てに」-26.2.2ー(その⑦)

第5回放送「死闘の果てに」-26.2.2ー(その⑥)から続く

■ 信長の入京

 ドラマは姫路の官兵衛と、信長や秀吉の動きをシンクロさせながら進みます。
 官兵衛が赤松勢との最後の決戦にのぞもうとしていた約1年前、永禄11年(1568年)9月、信長は将軍、足利義昭を擁して上洛を果たします。
 京の地は、第13代室町将軍、足利義輝を暗殺した松永久秀と三好三人衆が仲間割れを起こし、戦乱の最中にあって荒れ果て、無政府状態に陥っていました。
 信長は、久秀と三人衆を京から追い落とした後、乱暴狼藉をはたらく者は即刻打ち首にするなど、綱紀を粛正して、1ヶ月足らずの間に荒廃した都を立ち直らせたのでした。

■ 信長と義昭の不和の芽生え

 同11年10月、足利義昭は第15代将軍に就任します。義昭は信長を副将軍に任じようとしますが、信長はそんな官位、官職は無用として、そのかわりに堺、大津、草津に代官をおくこと(直轄領とすること)を義昭に願い出て許されます。
 貿易の一大拠点である堺、草津、大津を直轄領にするということは、莫大な収益をもたらします。信長は名より実をとったのでした。
 
 また、信長は、義昭が将軍宣下の祝いに盛大な能楽を催すことにも釘をさします。能楽は13番ではなく5番で十分だというのです(13番と5番ではどう違うのか、調べてみましたが残念ながらよくわかりません。ごめんちゃい)。
 義昭は、「それでは朕の体面が・・・」と口ごもりますが、最後は「うん、わかった。そうしよう」と信長の提案を受け入れるのでした。
 早、天下の実権をめぐって、信長と義昭の間に軋轢がではじめたというところですね。

■ 軍師半兵衛の誕生

 その頃、近江では、隠棲した竹中半兵衛(演:谷原章介)(→詳しくはコチラ)のところに、秀吉が毎日のように通っています。織田家の軍師になってほしいと頼みにいっているのです。
 しかし、半兵衛は、おのれの野心のために身内をも手にかけるような信長に仕えたくはないと断ります。
 そんな半兵衛に、秀吉は「すべてはこの乱世を終わらせるためだ」と土下座して頼みます。
 秀吉のそんな真摯な姿に、半兵衛もとうとう根負けして、信長ではなく、あなたの軍師として仕えたいと秀吉の求めに応じたのでした。
 軍師半兵衛の誕生です。

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 この場面はよく三顧の礼に例えられますね。三顧の礼というのは、中国三国(魏、蜀、呉)時代の話です。
 蜀の宰相、劉備玄徳が、隠棲生活をおくっている諸葛亮孔明を、三顧の礼をもって蜀の軍師に迎え入れた故事によります。

 それともうひとつ。半兵衛は信長ではなく秀吉に仕えたいといいますが、形式は信長の配下となります。信長から秀吉に派遣されるのです。つまり、秀吉と半兵衛は対等な立場ということなのです。このように信長から部下がある武将に派遣されることを、当時は寄騎といっていました。
 ウィキペディアをみてみましょう。こんな説明があります。

 戦国大名たちは、在地の土豪である寄騎・寄子を寄親の家臣団に組み込ませると、寄親の力が大きくなりすぎるため、謀反の防止の観点から腐心した。そこで寄親を統率する戦国大名は、寄子たる在地土豪たちを陪臣(家臣の家臣)とはせずに直接的に臣従させる一方で、重臣や有力武将(寄親)に附属させ、在地土豪の軍事力を効率的に利用したのである。特に後北条氏、今川氏、上杉氏、武田氏などにしばしば見られる。


 半兵衛もこれから、信長から秀吉の寄騎として派遣され、秀吉のもとではたらくことになるのです。
 
               第5回放送「死闘の果てに」-26.2.2ー(おわり)


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