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第6回放送「信長の賭け」-26.2.9ー(まとめ) - 軍師官兵衛-NHK大河ドラマ-プラットホーム

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第6回放送「信長の賭け」-26.2.9ー(まとめ)

■ そのとき信長は

 ドラマ「軍師官兵衛」は、官兵衛の動きと信長や秀吉をめぐる時代の流れを、いわばシンクロさせながら進むが、今週の「信長の賭け」を書くに当たって、これまで第1回「生き残りの掟」から第6回「信長の賭け」までの信長をめぐる動きについて年表風にまとめてみた。

 
信長をめぐる動き
年月信長をめぐる動き官兵衛の動き
1560(永禄3年)5.19
桶狭間の戦いで今川義元を破る。
官兵衛、元服(1561)
1562尾張統一を果たす。
1765(永禄8年)5.19松永久秀と三好三人衆、第13代将軍足利義昭を暗殺。
1567(永禄10年).8稲葉山城、落城。岐阜と改名し「天下布武」を宣言。職隆、官兵衛に家督を譲る。この頃、光と結婚。
1568(永禄11年).9足利義昭を守護し上洛を果たす。松寿丸(長政)誕生。
  同11月足利義昭、第15代将軍となる。青山・土器山の戦いで赤松軍を破る。
1570(永禄13年).6姉川の戦い、徳川織田軍が姉川で、浅井、朝倉連合軍を破る。
  同9月石山本願寺との合戦、始まる(第1次石山合戦)。
1571(元亀2).9.12比叡山延暦寺を焼き討ち。
1572(元亀3).9足利義昭の行状を非難する意見書をおくりつける。
  同10月武田信玄、上洛の兵を挙げる。三方が原で徳川軍、信玄に敗れる。
1573(元亀4年)足利義昭、京で挙兵するも信長、上京し、二条城を威嚇。義昭、降伏する。
  同7月義昭、追放。室町幕府の終焉。


■ 比叡山焼き討ちと信長包囲網

 今週のドラマ「軍師官兵衛」第6回「信長の賭け」は、比叡山延暦寺の焼き討ちに始まった。なぜ、この時期に信長が比叡山の焼き討ちを強行したのか。
 
 ドラマでは、信長をして「新しい世を作るためには、逆らう者は焼き尽くしてでも前に進むことが必要だ」といわしめている。比叡山を中世的旧勢力の代表とみて、これを徹底的に破壊しようとしたのである。
 それに、この当時の比叡山の学僧の腐敗はひどく、「天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し」(信長公記)、およそ仏僧の都というにはほど遠い状態だった。

 しかし、比叡山の僧侶の腐敗などは比叡山を破壊するための大義名分で、信長が延暦寺焼き討ちを強行した真の狙いは、当時、足利義昭によって形作られた信長包囲網の個別撃破にあったと考えられる。
 上記年表にある姉川の戦いで、浅井・朝倉連合軍に勝利した信長だったが、浅井・朝倉勢はまだまだ勢力を温存していて信長を悩ませていた。その浅井・朝倉勢を背後で支援していたのが比叡山だったのである。
 石山本願寺など一向衆との争いも本格化し始めた。摂津には三好三人衆の残党がことあらばと上京の機会を狙っている。
 
 足利義昭は、信長包囲網を敷くために、これら諸勢力や武田信玄、上杉謙信、毛利輝元など有力諸大名に信長追討の「御内書」をおくり、反信長勢力の糾合を図っていた。まさに信長は四面楚歌の状況にあったのだ。
 
 京都の鬼門にあたる北東に位置し、王城鎮護の山とされた比叡山を焼き討ちにするなどという誰にも考えつかずなしえないことを、信長は自らを取り巻く四面楚歌の状況を打破するためにあえて行った。これが、延暦寺の焼き討ちだったのである。

 比叡山の焼き討ちが成功だったかどうかは極めて疑わしい。この神をも恐れぬ行為に反信長勢力はますます反発を強め、信玄の上洛にとっては格好の大義名分を与えることになるのである。
 幸いにして、信玄は上洛の途上で病死したために、信長は結果的に事なきを得たに過ぎない。信長には天分がついていたという以外にいいようがないだろう。
 
 それはさておきドラマ軍師官兵衛である。比叡山の焼き討ちのあと、浅井・朝倉勢、石山本願寺や各地で頻発する一向一揆、三好三人衆の残党との対立、遂には武田信玄の挙兵という切迫した事態の中で、信長は、近江で対峙している浅井・朝倉連合軍を秀吉に任せ、「本当の敵をあぶりだす」そういって岐阜に帰ってしまう。

■ 本当の「敵」

 信長のいう「本当の敵」とは誰か。それは、御内書を乱発して反信長勢力を糾合している足利義昭のことである。
 「このままだと、前は浅井・朝倉連合軍、後ろは武田信玄に挟み撃ちにされてしまうぞ。いったい、お屋形様は何をお考えなのだ!」と憤る秀吉に半兵衛が答える。
 「お屋形様は京に火の手が上がるのを待っておられるのでは。今、京を攻めれば逆賊になります。義昭様が先に兵をあげれば大義名分は信長様にあります

 信長はその「本当の敵」をあぶりだすために、義昭の行状を非難する17か条の意見書をおくりつけた。比叡山焼き討ちからほぼ1年後、信玄が挙兵してからのことである。

 「余が民百姓からも悪しき御所と噂されているじゃと? なにゆえ、そのようなことを信長ごときにいわれねばならぬ

 明智光秀が「ここは上様が折れることが肝要かと」そういって冷静な対応を求めると「そちは誰の家臣じゃ!」と怒り狂う義昭。信玄を頼みに思う義昭の挙兵は目前に迫っていた。

■ 義昭、挙兵

 その頃、信長は半兵衛のよみどおり、京に火の手が上がるのをまっていた。しかし、火の手が上がる前に信玄が攻め寄せてくれば、信長は滅びるしかない。一生一代の賭けである。
 お濃の鼓で、幸若舞「敦盛」を舞い終わった後、お濃に滅びることが怖くはないのかと聞かれ信長いわく
 「命を賭けての大勝負だ。これ以上面白いことはない。死のうは一定(確実に決まったこと。幸若舞の一節)。人はいずれ死ぬ。わしは自分の命を使い果たしたいのだ

 それを聞くお濃は、口元を押さえて笑いながら「そのときは私が殿のお供をいたしましょう

 そこに柴田勝家が飛び込んできて「殿っ!、義昭公が京で兵をあげました!
 
 弓場に向かって矢を引き絞っていた信長は「こたびもわしは勝ったぞ!」そういって矢を放つと、その矢はたがえず的のど真ん中を射抜いたのだった。

織田信長(江口洋介)
    (織田信長:江口洋介)

■ 荒木村重と饅頭


 信長は義昭の挙兵を受け、信玄の動向をも見極めながら、京に向かって出陣した。途上、逢坂山で、信長は茨木城主、荒木村重の出迎えを受けた。それまで、三好三人衆に加担していた村重だったが、信長への帰順を決めたのである。


 入京後、村重は東山の知恩院で信長に対面すると、義昭ではこの乱世はおさめられないといい、摂津の情勢を説きに説いて、信長に命じられれば身命を賭して摂津を平定してみせると訴えた。
 「よく回る舌じゃのう」そういうと、信長はこじゅうの持つはい刀を抜き放ち、盆に盛られた饅頭をひとつ刺して、村重に「これを食うてみよ」と差し出した。
 饅頭を口にしたところをのどを刺し貫ぬかれれば命はない。緊張と恐れから脂汗を流しながらも、その饅頭を口に入れる村重。
 そんな村重に、信長は笑いながらいうのだった。
 「摂津一国、切り取り次第。好きにいたせ

 ところで、この饅頭事件。
 ドラマ軍師官兵衛第4回「新しい門出」で、官兵衛たちが堺に鉄砲を買い付けにいく途上、当時、浪々の身だった荒木村重に山賊に襲われたところを助けられる場面がある。
 助けられたあと、官兵衛らは昼食をともにするのだが、そのとき、官兵衛が差し出した饅頭を「これはわしの大好物だ」そういって村重が食べる場面がある。
 私はこの場面、昼食に饅頭はおかしい。おにぎりか干飯が本当だろうと書いたのだが、慧眼にも
「坂の上のサイドボード」の管理人sakanoueno-kumoさんは、この場面は、のち、村重が信長の刀に刺して差し出した饅頭を食べることの伏線だと見抜かれていた(→コチラ)。なるほど、そのとおりだったね。脱帽です。

荒木村重

 ドラマでは、このように、上京の途上、逢坂山で、信長は茨木城主、荒木村重の出迎えを受けたとされ、それまで、信長と村重には接点がなかったように描かれているが、この点は史実上、はっきりしない。
 例えば「ウィキペディア」の「荒木村重」の項にはこうある。なお、当ブログの荒木村重は→コチラ

 天文4年(1535年)、摂津池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(異説として荒木高村)の嫡男として池田(現:大阪府池田市)に生まれる。最初は池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り一族衆となる。しかし三好三人衆の調略に乗り池田知正と共に三好家に寝返り知正に勝正を追放させると混乱に乗じ池田家を掌握する。
 その後、織田信長からその性格を気に入られて三好家から織田家に移ることを許され、天正元年(1573年)に茨木城主となった。同年、信長が足利義昭を攻めた時に信長を迎え入れ、若江城の戦いで功を挙げた。
 天正2年(1574年)11月5日に摂津国国人である伊丹氏の支配する伊丹城を落とし、伊丹城主となり、摂津一国を任された。
 その後も信長に従い石山合戦(高屋城の戦い、天王寺の戦い)、紀州征伐など各地を転戦し、武功を挙げた。


■ 室町幕府の終焉

 上京した信長は、義昭の籠もる二条御所の周囲に火を放ち、義昭を威嚇して、わずか2日で義昭を降伏させた。
 しかし、義昭は執拗である。その年、元亀4年(1573年)7月、またもや槇島城で挙兵する。「ウィキペディア」の「足利義昭」の項にこうある。

 しかし7月3日、義昭は講和を破棄。義昭は烏丸中御門第を三淵藤英・伊勢貞興や公家奉公衆に預けたうえで、南山城の要害・槇島城(山城国の守護所)に移り挙兵した。槇島城は宇治川・巨椋池水系の島地に築かれた要害であり、義昭の近臣真木島昭光の居城でもあった。烏丸中御門第の留守居は3日で降伏し、槇島城も7万の軍勢により包囲された。7月18日に織田軍が攻撃を開始すると槇島城の施設がほとんど破壊されたため、家臣にうながされ、しぶしぶ降伏した。
 織田信長は他の有力戦国大名のてまえ、足利将軍家追放の悪名を避けるため、義昭の息子である義尋を足利将軍家の後継者として立てるとの約束で義昭と交渉のうえ自身の手元に置いた(信長の憂慮が去ると反故にされてしまう)。また、人質でもあった。 


 こうして200年以上続いた室町幕府は終焉を迎えたのだった。

吹越満
    (足利義昭:吹越満)


■ その頃、姫路では

 元亀3(1572年)。官兵衛は齢27.黒田家の当主として、はたまた小寺家の家老として、充実した日々を送っていた。
 松寿丸も5歳となり、元気なわんぱく盛りである。
 黒田家にも、のちに「黒田24騎」と呼ばれる新たな家臣団が育ちつつあった。


 しかし、家臣団のまとまりはイマイチ。その元凶は、青山・土器山合戦で死に絶えた母里姓を継いだ母里太兵衛だった。
 槍の腕前は抜群なのだが、やりすぎるのである。これはジョークでもなんでもない。槍の稽古をしていて、相手が負けてもそれを許さない。なおもつっかかっていく。仲裁に入る善助もたまらない。
 「亡くなった武兵衛様は、わしにとっては兄のような方で、それは立派な武士だった。その名に恥じぬ立派な振る舞いをしろ!」と太兵衛を叱り諭すのだった。
 「何かといえば喧嘩さわぎ。もう、太兵衛には手が負えませぬ。」そう訴える善助に、官兵衛は「確かに太兵衛は乱暴者だが、あいつに槍でかなう者はいない。必ず役にたつときがくる」そう諭し、家臣団の束ね役を命じた。

■ うなぎのみやげ

 一方、光。松寿丸が5歳になったというのに、2人目の兆しがみえない。ある日のこと、叔父の休夢がみやげを持ってきて、光に「体は大事ないか」そう尋ねた。
 「はあ、いたって丈夫です」と答えると、休夢はなにやら思わしげに立ち去るのだったが、そのみやげをみると「うなぎ」。これでしっかり精をつけよとの暗示である。
 
 その夜、食膳にうなぎを出して、光は官兵衛にこういうのだった。
 「姉は私よりあとに嫁いだというのに、もう二人目。それなのに私は・・・。武家の女としての役割を果たしておりませぬ。父も案じておりました。二人目はまだかと
 「そなたは松寿丸を産んでくれたではないか。それで十分じゃ」と官兵衛。
 光は思い切っていうのである。
 「殿、側めをお持ちなさいませ。そしてお子をくつりなさいませ
 「女はそなただけでよい。わしはそれよりも仕事がしたいのじゃ

■ 義兄弟の契り

 黒田家の日常はそんな風に過ぎていくのだが、ある日、太兵衛がまたまたもや他の家臣と騒ぎを起こした。
 槍の稽古に負けた家臣が、よってたかって太兵衛を襲い、太兵衛の持っていた守り袋を奪ったのだ。
 太兵衛と他の家臣が争っているところに仲裁に入った善助は「今度ばかりは許さぬ! 母里の名を返上せよ!」と激怒し、官兵衛にご注進。
 官兵衛が、家臣が太兵衛から奪ったというその守り袋を開けてみると、そこには官兵衛が武兵衛に与えたかぶと仏が入っていた。
 なぜ、このかぶと仏を太兵衛がもっているのか? 不審に思った官兵衛が太兵衛を呼び寄せて聞いてみると、太兵衛が母里姓を継いだとき、武兵衛の母から、母里家の男たちが官兵衛を守るために命を賭けてきたことを説き、その思いを忘れぬよう常に身につめておきなさい、そういって渡してくれたものだ。だから、私も母里の名を継いだ者として、武兵衛のように殿をお守りすると誓ったのだと打ち明けたのだった。
 それを聞いた善助は、自分も武兵衛から官兵衛を守るよう託されたことを思い出し、太兵衛がそんな思いで槍の稽古に励んでいたことを知らなかった自身の不明をわびたのである。
 
 そんな二人の会話を聞きながら、官兵衛は善助にこう聞くのだった。
 「われら黒田家の宝をなんと心得る?
 「近隣に鳴り響くその強さでございます
 「その強さはひとえに家中の結束にかかっておる。ひとりの力などたかがしれている。だが、それが束になって強い絆で結ばれれば、力は数十倍、数百倍になる
 
 そして善助の知恵と太兵衛の力が強い絆で結ばれれば、これほど頼もしいことはないと、善助と太兵衛に義兄弟の契りを交わさせたのである。
 「善助は兄として太兵衛を導け。太兵衛は決して善助の教えをたがえてはならぬ
 
 この席には、井上九郎右衛門がいた。数日前、官兵衛に「黒田家の家臣をどう思う?」と聞かれ、「いささか結束が弱うございます」と素直に答え、官兵衛に「思ったことをズケッと申す」と苦笑いされた、寡黙な将来の2番家老である。
 しかし、こうして、将来の1番家老、栗山善助と、槍にかけては右に出る者がいないとうたわれた勇猛果敢な母里太兵衛が義兄弟の契りを交わし、そこに将来の2番家老、井上九郎右衛門が加わって、黒田家の家臣団はより結束を固めていくことになるのである。

速水もこみち
   (母里太兵衛:速見もこみち)

■ かぶと仏

 ところで、閑話休題。
 太兵衛が身につけていたという「かぶと仏」。みなさんはこれまでにこの言葉を聞いたことがおありだろうか。
 私は初めてだった。ドラマの画面で官兵衛が手にしていた「かぶと仏」は、なんか木彫りの武将像の模型のようでもあり、仏様の模型のようでもあった。
 少し調べてみると、戦国武将が兜(かぶと)の中に入れて戦ったとされる小さな仏様のことだそうだ。
 学習塾経営、かわむら・たかおさんのサイト「
冑仏伝説 蒼天のクオリア」に次のような記述がある。引用しよう。

 甲冑師の三浦公法氏からは、武田信玄の兜について興味深い話を聞いた。
それによると、「甲斐国志」に「信玄首鎧ノ前立金ノ不動」に関する記述があり、調べてみると、信玄ゆかりの神社に秘蔵されていた、という。
 三浦氏に送っていただいた写真を見ると、厨子が我が家のものとよく似ていて、息が止まる思いだった。

 歴史をさかのぼると、平安時代に初の征夷大将軍に任じられた坂上田村麻呂に冑仏に似た秘仏の伝承があった。
 花巻市にある胡史王(こしおう)神社には、「坂上田村麻呂は兜の中心に薬師如来像を納めていた。
 それは、金銅仏で、小さな黒漆塗りの厨子にまつられている秘仏であった」との伝承が残っていたのだ。

 「吾妻鏡」には、源頼朝が平氏追討のために挙兵した直後の話として、出陣の際、幼いころから信仰していた観音像を、髪を頭頂部でまとめて束にした髻(もとどり)の中に納めた、という記述があった。
 また、同時期の武将、木曽義仲の菩提寺には、義仲が兜に納めたとされる「かぶと観音」が残っていた。

 戦国期の武将では、加藤清正が、長烏帽子形の兜の内部の頂上に日蓮上人の黄金像を安置していた、という伝承がある。
 これは、甲冑研究のバイブルというべき山上八郎著「日本甲冑の新研究」(一九二七年)に記されていた。

 上杉謙信の菩提寺、林泉寺では「兜守(かぶともり)」と呼んでおり、「一寸から一寸半くらいの小さな仏様が十五体ぐらいある。
 身分の低い武士は仏の姿や経文を木彫りにしてお守りにしていた。位が高くなると、木像を腰につるしていた」という話を聞いた。

 冑仏に関する記録はあまりにも少なく、これまで研究対象になることもなかったようだ。
 しかし、仏法や武術を相伝する場合、奥義は口伝によって伝えられる。このことを思えば、武将の私的な信仰の対象である秘仏、冑仏こそ、彼らの内面を理解する重要な鍵になるのではないだろうか。

 戦場に赴く前や、激しい戦闘を終えた後、ひそかに小仏に手を合わせていたかもしれない。
 こう考えると、勇壮、豪放といった言葉で語られる武将たちのイメージは一変する。

 塾講師の傍らでの研究のため、全国津々浦々まで調査の手を伸ばすことはできていない。ただ、生徒には、君たちが大人になったころ、テレビや映画の中で、戦国武将が兜から小さな仏像を取り出すシーンを目にすることになるかもしれない、と夢を語っている。

 これからも、ゆっくりと時間をかけて、冑仏の謎を追いかけていきたい。


 上の文章で、かわむらたかおさんが生徒さんに語られているシーンが、やや違った形ではあるが、ドラマ軍師官兵衛で実現したということになる。
 なるほどなあ。こうしてみると、歴史というのは実におもしろい。

kabutohotoke.jpg

 ドラマ軍師官兵衛で、太兵衛が持っていた「かぶと仏」はこんな感じをもう少し細身にしたような印象だったね。

■ 井戸の中のかわず

 信長が石山本願寺や浅井・朝倉連合軍と争い、北陸では信長を討つために武田信玄が挙兵したとの報は、姫路にも伝わってきた。
 御着城での評定でも、そのことが話題になったが、政職や老臣の小河は信長は信玄の敵ではないとたかをくくり、中央の出来事をまるで対岸の火事としかみていない。
 一人、官兵衛だけが中央の動きに緊張感を抱いているのだが、政職はそれよりもなによりも、嫡男、斎(いつき)のことしか頭になく、斎のためにここ御着を守ることが大事だとみなに言い聞かせるのだった。 


 評定のあと、御着では官兵衛の強い後ろ盾となっている舅の櫛橋左京亮が、官兵衛を呼び止めた。そして、官兵衛夫婦に第2子が産まれないことを案じ、官兵衛に側室を持つことをさかんに進める。
 その左京亮もあまり体調がすぐれない様子。そのことが官兵衛には気がかりだった。

■ 文四郎の報告

 ある日のこと、全国を渡り歩いている広峯神社の御師(おし)、伊吹文四郎から、官兵衛は天下の情勢を聞いた。
 都で足利義昭が信長打倒のために挙兵したこと、その挙兵が信長に手によってたったの2日間で平定されたこと、信長は家柄や門地に関係なく、実力のある者を引き立て、既に新参の家臣に摂津一国を任せたことなどである。
 「いよいよ信長殿の天下か。で、摂津一国を任された新参者の家臣とは誰か?
 「確か、荒木村重殿と申されました
 その返答を聞いて、官兵衛は驚いた。そうである。堺に鉄砲を買い付けにいく途上、山賊から官兵衛たちを守ってくれ、その上、堺までの道案内をしてくれたあの荒木村重である(→コチラ)。あのとき、村重は一介の素浪人だった。

 この話を官兵衛は職隆に伝え、「私は井戸の中のかわずです。しかし、この姫路を離れるわけにはいきませぬ。なんともはがゆい・・・」そういいながら、くやしまぎれに庭に向かって矢を放つと。そんな官兵衛を見て、職隆は「ならば、狭い井戸から出て、己の目で天下の形勢を確かめてまいれ。この姫路はわしが守る」と官兵衛を送り出したのだった。

■ 荒木村重との再会

 「官兵衛、よくぞまいった!
 予言どおり、城持ちとなった村重は、その居城、有岡城で官兵衛とその供、善助と太兵衛を歓迎してくれた。
 「おぬしにすごい秘密を教えてやる。あの武田信玄が死んだ。武田方は隠しておるが、織田方はとっくに見抜いておる
 「信長公とはどのようなお方ですか?
 「あの方はひとたび敵とみなすと容赦はせぬ。血も涙もない。その所業ゆえ魔王と呼ぶ者もいる。しかし、強烈に人を惹きつける何かがある。あの方のもとで天下とりの手伝いをしているのかと思うと胸が熱くなる

 これは官兵衛と村重の茶室での二人だけの会話である。村重はのち、利休十哲に数えられる茶人になるが、その茶で官兵衛をもてなしたのである。
 天下の情勢を話し合ったあと、村重は官兵衛に「いいものをみせてやる」そういって、荒木高麗とのちに呼ばれるようになる茶器を取り出した。
 官兵衛にこの時点で茶に対する造詣はない。わからないままに「これはまた立派なものですな」とおべんちゃらをいうと、「それは一国を買える値打ちのある茶器だ。信長様もいろいろと茶器を集めておいでだが、これだけはたとえ信長様でも譲れない」と村重。

 この会話は後日の伏線である。というのは、有岡城落城の際、茶器のコレクターである信長が、村重が所有する「荒木高麗」を差し出せば、命は助けてやると約束したという話が残っているからだ。
 しかし、村重はその申し出を断り、この「荒木高麗」を身に携えて、有岡城から逐電するのである。

araki高麗
            (荒木高麗)

■ 村重の妻、だし

 官兵衛一行を迎えて、夜は宴会となった。妖艶な美女が舞を舞い、官兵衛たちはその美しさに見とれてしまった。村重の妻、だしである。(だし→コチラ
 村重が官兵衛に酒を注ぎながらいう。
 「どうだ。美しいだろう。美女は3日見れば飽きるというが、だしは3年たっても飽きがこない。このわしには過ぎたる女房だ
 舞のあと、だしは官兵衛に酒を注ぎながらこういう。
 「あなたさまは大変賢いお方だと殿から聞きました。私は賢いお方が好きでございます
 赤くなってもじもじ照れる官兵衛。
 以下はネタバレ。史実にはないが、ドラマでは官兵衛の有岡城幽閉の折に、だしが官兵衛のことをなにくれと世話を焼き、失敗はするが脱出の手伝いまでをもするという設定になっている。したがって、この時点ですでに、だしは官兵衛に好意を抱き始めているということか。

dasi.jpg
     (だし:桐谷美玲)

■ 櫛橋左京亮の死

 信長は人使いが荒い。義昭が再び挙兵した(槇島城の合戦)ので、3日後には出陣しなければならないという村重に、官兵衛は是非にその陣に自分たちも加えてほしいと頼み込む。
 しかし、その夜半、井上九郎右衛門が官兵衛に櫛橋左京亮の死を伝えにきた。
 「わしはすぐに帰る。お前たちは村重殿について、織田の戦いぶりをつぶさにみてくるのだぞ
 善助と太兵衛にそういいおいて、急ぎ帰国すると、父を失った光が悲しみに暮れていた。
 「二人目をみせてさしあげとうございました
 「あせるな、光。子は授かりものだ

 左京亮のあとを継ぐ左京進は官兵衛のいわば仇敵。官兵衛は、左京亮の死で、力強い後ろ盾を失い、これから御着で孤立することとなる。

櫛橋左京亮
      (櫛橋左京亮:益岡徹)

                第6回放送「信長の賭け」-26.2.9ー(おわり)


第6回放送「信長の賭け」言及サイト紹介
サイト名管理人表題
坂の上のサインボードsakanoueno-kumo さん軍師官兵衛 第6話「信長の賭け」  ~栗山善助・母里太兵衛・井上九朗右衛門~
大河映画裁判酒にゃんこ”幸あれ”・・・清水しゅーまい清水しゅーまい さん「軍師官兵衛」槍を呑み取った母里太兵衛、黒田武士
黒田官兵衛と戦国時代プチ研究トモ  さん軍師官兵衛 第6回 信長の賭け
ショコラの日記帳・別館ショコラ425 さん【軍師官兵衛】第6回感想と視聴率&東京都知事、舛添氏に
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軍師官兵衛 第6回「信長の賭け」〜少しずつだが、前進し強くなっている黒田家臣団!

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2014-02-14 08:57 from 平成エンタメ研究所

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