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荒木村重② - 軍師官兵衛-NHK大河ドラマ-プラットホーム

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荒木村重②

(荒木村重①から続く)

■ 荒木村重の一生

 荒木村重ほど評価の分かれる武将もめずらしいですね。なぜでしょうか。そのことを考える前に、まずは村重の一生を概観してみたいと思います。


荒木村重

○ 1535年  摂津3守護(池田氏、和田氏、伊丹氏)の一人、池田勝正の郎党、荒木村重の子として生まれる。
○ 1570.6  村重、主君、池田勝正を追放。
○ 1571.8  三好三人衆(信長に反抗していた)と手を結び和田惟長を滅ぼす。
○ 1573.3  信長に謁見、茨木城主となる。  
○ 1573.8  伊丹城攻略、伊丹親興を追放。摂津35万石の領主となる。
○ 1573~1578  石山本願寺攻め、紀州雑賀攻め各地の合戦に参戦。
○ 1578  信長に、突如、叛旗を翻し、有岡城(元伊丹城)に籠城。
○ 1579  説得にきた黒田官兵衛を牢に幽閉。
○ 1579  有岡城を脱出。尼崎城に逃げ込む。
○ 1579  2ヵ月後、有岡城陥落。城に残っていた妻子、一族郎党が、信長の命によって、全員虐殺。後、村重は、毛利領内に逃げ込み剃髪して僧形となって「道糞」と名乗る。
○ 1582年  茶人「道薫」として千利休と交流。利休10哲と呼ばれた。秀吉のお伽衆も務める。
○ 1586年  52歳で没。


■ 勇猛果敢、豪胆な武将としての村重
 
 年表をみればわかるように、池田勝正の一郎党の子として生まれた村重は、父親の跡を継いだ後、主君村重を追放、さらに和田惟長も高槻城から放逐、伊丹城をも攻略して、摂津35万石の領主となりました。
 これらのことを、ときには調略を、ときには偽計を、ときには武力をもって、村重はたったの3年でやってのけたのです。
 また、その後も石山本願寺攻め、紀州雑賀攻めでも力を発揮し、信長配下でも有数の大名にのしあがりました。
 信長と初めて謁見したときの話が有名です。信長は村重の度胸のほどを試そうと、村重の前で刀を抜き、近くにあった饅頭を串刺しにして「これを食べてみろ」といいます。満座の武将が青ざめる中、村重は平然とその饅頭を口にくわえ食べて、その差し出された刀を袖でぬぐったといいます。
 これをみた信長は、その豪胆さに感心し、その場で摂津35万石の領主になることを認めたのでした。
 このような逸話、事蹟から、村重は豪胆で勇猛なばかりではなく、知略をも兼ね備えた武将として評価されたのです。

■ 去就のはっきりしない卑怯な武将としての村重

 このように、信長からも信頼され重用された村重ですが、摂津東部の別所長治の信長謀反を受けて、秀吉による三木城攻めが行われた際に、突如、村重は有岡城にこもり、信長に叛旗を翻します。
 なぜ、信長の信頼の熱い村重が、突如として叛旗を翻すにいたったのかは今もってなぞで、諸説あります。列記してみましょう。

・ 村重は足利義昭や石山本願寺とも親しかったため、両者の要請を受けて信長に反逆した。村重が支配していた摂津は当時、中国方面に進出していた羽柴秀吉の播磨、丹波方面に進出していた明智光秀らにとって重要な地点であり、村重が反逆した場合、両者は孤立することになるため、前掲2者の意向を受けての謀反だったのではないかという説。
・ 村重の家臣(中川清秀という)が密かに石山本願寺に兵糧を横流ししていたため、それが信長に発覚した場合の処罰を恐れての謀反であったという説。
・ 信長の側近・長谷川秀一の傲慢に耐えかねたという説(『当代記』)。
・ 天正元年(1573年)、村重は信長を近江の瀬田で出迎えたが、この時に信長が刀の先に突き刺して差し出した餅をくわえさせられるという恥辱を味わさせられたという怨恨説。
・ 黒田孝高と相談の謀略説。信長暗殺のため後に成功した本能寺のように手勢が手薄なところへ誘き出し夜襲する計画であったという。そのため信長の遺産を継いで天下人となった秀吉・徳川家康などからは厚遇されることになったとされる説。
・ 将来に希望が持てなくなったからという説。石山合戦では先鋒を務め、播磨国衆との繋がりもあったが、本願寺攻めの指揮官が佐久間信盛になり、播磨方面軍も羽柴秀吉が司令官に就任したことから活躍の場がなくなったからといわれる。(ここまでの諸説については、
ウィキペディア「荒木村重」から引用) 
・「真実のところは、荒木も毛利方に転じて、一山張るつもりであったろう。当時の諸豪の去就は、現時の相場師が、朝に売り手となり、友に買い手にまわるごとく、その思惑次第にて、方向を転換したものだ」との説。(徳富蘇峰「近代日本国民史から」
・ 謀反の意思はないとの弁明をするために信長に会いにいこうとする村重に、明智光秀が、信長は村重をなんとか説得できないかと考えていたにもかかわらず、「村重の陰謀は明白だとして、信長様は大変な怒り様である。もし、明日にでもやってくれば、その場で取り押さえて処分するといっておられる」と知らせるなどして、村重の不安と恐怖を煽ったという説。
 これは、明智光秀が、後日、信長を倒すためには村重が近くにいては邪魔になると考え、いろいろな謀略をもって村重を反抗せしめたとするもの。


 私は個人的には、徳富蘇峰の考えに組します。当時の村重を取り巻く状況をみれば、信長勢に石山本願寺が対抗し、三木城では別府長治が反抗ののろしをあげています。村重が叛旗を翻せば、摂津の有力領主小寺政職も村重に同調するに違いないとの読みができます。
 西で天下を窺う毛利方と連携すれば、石山本願寺、別府長治、村重、小寺政職、毛利といった大きな勢力をして、十分、信長に対抗できると考えたとしても無理はないでしょう。
 加えてあの信長の専制君主ぶりです。石山本願山への糧食の横流の疑いありとして釈明を求めてきていますが、なんとか釈明に成功したとしても、いったん疑念をもった信長が、これまでどおりに村重を重用するかどうかははなはだ疑わしいものがあります。
 そういったあれやこれやを考えて、村重の心の振り子は石山本願寺や毛利との連携に大きく傾いていったのではないでしょうか。
 長くなってきたので、続きは次回にまわします。

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