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荒木村重③ - 軍師官兵衛-NHK大河ドラマ-プラットホーム

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荒木村重③

荒木村重②から続く

■  村重の謀反

 前回は、突如、村重が信長に叛旗を翻して、有岡城にこもったのはなぜか、諸説を紹介し、私の考えも述べましたが、もう少し、敷衍しておきましょう。
 私たちは、村重が叛旗を翻した結果がどうなったかということを知っていますから、それを前提に、なぜ、村重はあんな行動をとったのだろうと考えてしまいます。
 しかし、当時の畿内の状況は、群雄割拠、まさに混沌としていて、今日の味方が明日は敵になり、1朝にして主客逆転することもありえる下克上の時代でした。
 東国には、武田は滅ぼされましたが、いまだ、上杉、徳川、伊達といった有力武将が盤踞していて、西国には毛利が天下を狙っていました。九州には、これまた、大友や島津といった有力領主が、四国には長宗我部が天下をうかがっていました。
 村重にとって、毛利を盟主と仰いで、木寺など播磨の領主を糾合し、石山本願寺と連携すれば、天下も夢ではなかったのです。
 加えて、信長の暴君専主ぶりは、日を増してひどくなっていました。猜疑心の強いあの信長に疑念を抱かれたとなると、どのような将来がまっているかわかったものではありません。
 それに、村重は、いわば一兵卒に毛が生えた程度から成り上がった武将です。これまで、智略、調略、武力を駆使して、連戦連勝、負けを知らず、遂には摂津35万石を領するまでになった知将でした。
 そういう風に考えてみると、村重が自らの地力に頼んで、一生一代の大勝負をするのは今こそと考えたとしても、それは無理からぬものがあったと思うのです。そのための反逆だったと私は思うのですが、さあ、皆さんはどう考えますか?

荒木村重

■ 籠城後の村重

 村重の信長への叛旗に、摂津の小豪族、播磨の領主たちも呼応します。村重は高槻城に高山右近、茨木城に中川清秀、尼崎城に嫡男、村次、花隈城に荒木元清、御着城に小寺政職という風に、摂津から播磨へと弧状に守りを固め、毛利からの援軍を待ち、反撃の機会を窺っていました。

有岡城跡地
                          (有岡城跡地)

 しかし、事柄は村重が思い描いたようには進みませんでした。堅牢を誇った三木城は秀吉に干殺しにあってあえなく陥落。毛利も自慢の毛利水軍が織田軍に完敗し、援軍を送るどころではありません。また、送りたくてもその行く手は秀吉たちに阻まれています。石山本願寺も織田軍に防戦一方の有様でした。
 特に痛かった村重の誤算は、高槻城の高山右近、茨木城の中川清秀の裏切りです。それでも、村重は1年近くの間、よく耐えましたが、ついに有岡城を脱出、村次の籠もる尼崎城に逃げ込みます(このとき、村重は単身で密かに城を逃げ出したという説と数人の供を連れていたとの両説があります)。
 信長は、村重に対して、「尼崎城と花隈城を明け渡せば妻子は助ける」という約束を荒木久左衛門ら村重の家臣と取り交わし、荒木久左衛門を尼崎城に籠もる村重のもとに送りますが、村重はこれを聞き入れず、徹底抗戦の構えをみせました。
 天正2年(1574年)10月、遂に有岡城落城。妻子は囚われの身となります。信長の処置は過酷を極めました。有岡城の女房衆122人を尼崎近くの七松において惨殺、12月には村重一族と重臣の家族36人を、京都市中引き回しの上、六条川原で殺し(斬首)たのでした。

 一方の村重。尼崎城が陥落すると花隈城へ移り、その花隈城も攻め落とされて、遂には毛利へ亡命します。
 それからしばらくの間の村重の消息は明らかではありません。再度、村重の名前が挙がるのは、豊臣秀吉が覇権を握って後のことになります。
 大坂で茶人として復活したのです。名前も、当初は「道糞」と自らを貶めるような名前を名乗っていましたが、これを「道薫」と改め、千利休とも親交をもち、のちに利休七哲とよばれるまでに茶の道を究めます。茶の道で秀吉のお側衆をも務めたともいいます。
 天正14年(1586年)5月4日、堺で死去、享年52歳でした。

■ 村重の評価

 村重が智略に優れた勇猛果敢な武将であるとの評価がある反面、卑怯極まりない惰弱な武将だったとの評価が聞かれるのは、この有岡城からの脱出と妻子の見殺しにあります。武将としてあるまじき振る舞いだというのです。
 しかし、反面、有岡城からの脱出も、単に命が惜しいために城から逃げ出したのではなく、自ら毛利に出向いて事の理非を問い、援軍を求めて捲土重来を図ろうとしたという見方もできます。現にそのことを示唆する村重の手紙も見つかっています(
→伊丹再発見シリーズ)。
 そうであるならば、村重の有岡城からの脱出も、当時の状況からすれば1つの選択肢として首肯できるものです。村重の再評価の必要性が叫ばれるのもここにあります。
 でも、やっぱり私は、村重の行動には同調できないものを感じますね。それは、もはや有岡城落城が目の前に迫った時点で、信長からの使者(荒木久左衛門)が城を明け渡せば妻子の命は助けるといってきたのにこれを拒否し、あくまで反抗の意思を示した点にあります。
 もはやこの時点では毛利の援軍ものぞめない状況です。まさに四面楚歌。後はどう落とし前をつけるかに焦点は絞られてきています。
 そこで、城内の妻子たちの命よりも自らの命を優先させたのは、その立場に立ってみなければわからないといえばそれまでですが、武将というよりも一人の人間として潔さに欠けるものがあると思うのです。
 さて、みなさんはどうおもわれますか?

 今回はこの辺で。次回も、もう少し、荒木村重関係の話を続けます。

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