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第7回放送「決断のとき」-26.2.16ー(その②) - 軍師官兵衛-NHK大河ドラマ-プラットホーム

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第7回放送「決断のとき」-26.2.16ー(その②)

第7回放送「決断のとき」-26.2.16ー(その①)から続く

■ 毛利氏

 第6回「信長の賭け」でも、最後の方で、毛利輝元を囲んで小早川隆景と吉川元春が、近畿の情勢について話し合う場面があったが、今回からは初手から毛利家の外交僧である安国寺恵瓊が登場する。
 これから、播磨では毛利家に従うか織田家に臣従するかをめぐって、各領主間で浮沈をかけた争いが展開されるのである。

 そこで、ここで簡単に当時の毛利氏の状況を見ておきたいと思う。

 元亀2年(1571年)、毛利元就が死んだ。信長が比叡山の焼き討ちを行った年である。享年75歳。
 このとき、毛利家の版図は、元就の根拠地である安芸国をはじめ、備後・備中のほぼ全域、出雲、石見、伯耆の半国、周防、長門、伊予の一部、筑前と豊前の一部にまで及んだ。まさに中国地方の覇者だった。

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 元就は、3人の子(毛利隆元、小早川隆景、吉川元春)に「三子教訓状」(→ウィキペディア)などにより家訓を残したが、その中でも、以後の毛利の天下に臨む態度として重要なのは、次の2つの教えだった。

 1つ目はこうである。

 「我が毛利家は、版図の保全のみを願い、天下を望むなかれ。天下を支配する者は、いかに栄耀栄華を誇っても、何代かのちには一門の枝折れ、株絶えて、末代の子孫まで続くことはない。天下に旗を翻して武名を一世にあげるよりは、むしろ60余州を5つに分けてそのひとつを保ち、栄華を子々孫々まで残せ」

 2つ目は「3本の矢」の逸話である。

 ある日、元就は3人の息子(隆元、元春、隆景)を枕元に呼び寄せ、1本の矢を折るように命じた。息子たちが難なくこれを折ると、次は3本の矢束を折るように命じたが、息子たちは誰も折ることはできなかった。元就は1本では脆い矢も束になればこのように折れることがない。3人が相協力してこそ、毛利家を子々孫々まで存続していくことができると教えた。

 隆元が死んで、元就の孫、輝元が毛利家の当主となってからは、この2つの家訓を守って、小早川隆景と吉川元春が輝元をよく補佐し、官兵衛のこの時代、毛利家は中国地方をよくおさめていたのである。

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                     (毛利元就画像)

 しかし、天下を望まないといっても防御するばかりが能ではない。時には積極的に打って出るのも防御のためには必要なことである。
 伸張著しい信長に対抗し、毛利家を守っていくためには、隣国である播磨の諸領主を毛利方に引き込んでおくことは、毛利家を守り通すためには欠かせなかった。積極的防御。それが安国寺恵瓊の播磨諸領主への調略に繋がっていたのだろう。

    第7回放送「決断のとき」-26.2.16ー(その③)に続く



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