ダイフルカン

中川清秀① - 軍師官兵衛-NHK大河ドラマ-プラットホーム

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

いい記事だなって思ったらポチっと応援をお願いします。

にほんブログ村

大河ドラマ・時代劇 ブログランキングへ

中川清秀①

 別項(→荒木村重④)で、白井河原の合戦の碑文を紹介しましたが、この中に中川瀬兵衛の文字がみられます。  

(碑文再掲)

                  白井河原合戦跡

 この茨木川をはさんで付近一帯を「白井河原」といい、茨木、伊丹両氏と、池田氏とが歴史上の合戦をしたところです。
 茨木方を支持する和田伊賀守惟政と池田方の荒木摂津守村重、中川瀬兵衛ら池田21人衆との対立となり、元亀2年(1571年)8月、ついにこの白井河原で激突しました。
 このとき、和田勢500余騎、池田勢2500余騎が相対しましたが、和田軍はまだ戦列が整っていませんでした。そこで、部下の一人、高利平太夫(郡平太夫)が時間かせぎをしようとしましたが、その計略を見破られたため主君惟政に「多勢に無勢…」などと進言しました。しかし、惟政これを聞き入れず、後続軍の到着を待たずに200余騎の小数で突撃しましたが、このとき惟政は、池田方の武将、中川瀬兵衛に討ちとられました。主君を失った和田・茨木の朗等たちは「主を討たせてどうして生き残れようか」と切ってでて討ち死にしたので、「白井河原は名のみにして、唐紅いの流れとなる」ほど赤い血に染まったそうです。


 中川瀬兵衛が荒木村重に付き従ってこの合戦に参加し、和田惟政を討ちとったとあります。この中川瀬兵衛とは、まぎれもなく中川清秀のことです。瀬兵衛は通称。
 この碑文が中川清秀の正式な名前ではなく通称を用いているのはなぜでしょうか。荒木村重はちゃんと正式名称を用いているのに、中川清秀については通称だけを用いたその意図が私にはわかりません。中川瀬兵衛清秀とするか中川清秀と記するのが本当だと思うのですが・・・。
 中川清秀は後の名前で、この時点では瀬兵衛を名乗っていたとすれば、その時点の名前を記したということかもしれませんが、それにしてもおかしなことです。
 ちょっとしたことではありますが、こんなところにも、茨木の住民が中川清秀のことをあまり地元の誇りとは思ってはいないことが現われていると考えるのは、あまりにも穿った見方でしょうか。

■ 中川清秀の生涯

 中川清秀は、天文11年(1542年)、摂津国福井村中河原(現:茨木市)に生まれています。
 長じて、清秀は摂津国の豪族だった池田勝正に仕えましたが、勝正が荒木村重に追放されると、村重と行動をともにするようになります。
 村重は、当時、織田信長とは敵対関係にあった三好三人衆と手を結び、信長方の伊丹親興、和田惟政と対立します。この対立は遂に合戦に発展、村重、清秀方と和田惟政は、白井河原(1572年)であいまみえ、結果、碑文にあるように、惟政は中川清秀に討ち取られてしまうのです。
 村重は、後、三好三人衆と縁を切り、信長の信任を得てその幕下に入ると、引き続いて伊丹親興をも追放し、摂津国の守護となります。一緒に行動してきた中川清秀は、村重の下にあって茨木城を任されるのです。
 しかし、その村重が三木城攻略の最中に信長に叛旗を翻して有岡城にこもると、中川清秀もこれに従います。というより、信長に叛旗を翻させたのは中川清秀その人でした。明智光秀たちの説得に応じて、信長に会いにいこうとする村重を、中川清秀が説きに説いて翻意させたのでした。
 にも関わらず、信長が攻めてきて、信長に甘い汁を吸わされる(信長は、織田の娘を中川清秀の息子に嫁がせると約束した。これにより、後年、清秀の嫡男秀政は、11歳で信長の息女鶴姫と結婚している)と、中川清秀はいとも簡単に村重を裏切り信長方についたのでした。この変節のあり様が、中川清秀その人の評価に大きくかかわっているように思えます。
 その後は、丹羽長秀や池田恒興にしたがって転戦し、のち秀吉の旗下にあって、天正11年(1583年)、賎ヶ岳の戦いで柴田軍の勇将、佐久間盛政の猛攻にあって戦死します。享年42歳でした。

中川清秀画像

■ 黒田官兵衛との接点

 あの中国からの大返しの後の山崎の戦い(秀吉対明智光秀)では、中川清秀は山崎の地に高山右近とともに秀吉方に馳せ参じ、大いに活躍しました。この山崎の戦いには黒田官兵衛が秀吉の軍師として付き従っていますから、清秀と官兵衛がここであいまみえたことは間違いないところでしょう。
 その後も清秀は秀吉傘下にあって、多くの戦いに参戦していますから、官兵衛と清秀の間になんらかの交流があったとしても不思議ではありませんが、どうやら、それを示す明確な資料はないようです。
 中川清秀と秀吉が兄弟の契りを結んだ文書も発見されていて、秀吉とは大変親密な関係にあったようですが、官兵衛との関係は希薄なので、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の中に、中川清秀が登場するかどうかは今のところ定かではありません。
 ただ、秀吉が備中高松城を包囲した折、信長が本能寺で明智光秀の謀反にあい落命しますが、その謀反を高松城に伝えたのが中川清秀だったといいますから(もっとも、清秀が秀吉にその事実を伝えたときには、秀吉は光秀が毛利に放った使者を捕らえて、信長の死を知っていたといわれている)、この関係で中川清秀がドラマ「軍師官兵衛」に登場する可能性がないとはいえません。
 また、最近の新聞記事で、賎ヶ岳の戦いにおいて、官兵衛も参戦していたことを示す文書が見つかったことが報じられています(
→新聞記事)。となれば、賎ヶ岳の戦いにおける中川清秀の討ち死場面もドラマに出てくる可能性がないわけではありません。
 いずれにしろ、茨木に職場がある私としては、端役でもいいからこのドラマに、中川清秀を登場させて欲しいと願っていますが、さてどうでしょう。ちょっとだけ期待して待ちたいと思います。
                
                               (中川清秀②に続く) 


いい記事だなって思ったらポチっと応援をお願いします。

にほんブログ村

大河ドラマ・時代劇 ブログランキングへ


コメント
非公開コメント

いい記事だなって思ったらポチっと応援をお願いします。

にほんブログ村

大河ドラマ・時代劇 ブログランキングへ

トラックバック
当サイトのテキスト・画像等すべての転載転用、商用販売を固く禁じます 
Copyright © 軍師官兵衛-NHK大河ドラマ-プラットホーム All Rights Reserved.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。