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中川清秀③ - 軍師官兵衛-NHK大河ドラマ-プラットホーム

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中川清秀③

■ 中川清秀の由緒地石碑

 中川清秀②では見つけることができなかった中川清秀の由緒地の石碑をみつけました! 
 ウィキペディアの石碑の写真が、なにやら道端の草深いところにあるように写っていたので、そんな場所を探していたのですが、中河原橋を少し南に下った西国街道との交差点の小さな公園横にそれはありました。
 
中川清秀、中河原② 

■ 中河原の道導(みちしるべ)
 
 石碑の横には茨木市教育委員会の「中河原の道標(みちしるべ)」と題した表札が立っています。

中川清秀、中河原③

 こうです。
 

                   中河原の道標
 
 この地は、茨木市内を東西に走る西国街道と、南北に走る亀岡街道が交差するところです。町名を「中河原町」といい。茨木城の城主として名を連ねている「中川清秀」が生まれたといわれる由緒地です。
中川清秀は、中川佐渡守重清公の長男として生まれました。
 「中川史料集」によると、天文11年壬寅(みずのえとら)(1542年)「城州所詳ならずに於いて、御誕生御名虎之助(ごたんじょうおんなとらのすけ)、後、瀬兵衛尉(せべえじょう)と称し奉る」とあり、生まれた詳しい場所はわかりませんが、清秀の菩提寺である梅林寺の蔵書に、摂州島下郡中河原とあることから、この辺りであるとも考えられています。
 ここから西国街道を、西へ約1キロメートルいくと、江戸時代の参勤交代などのときに、西国の大名が宿泊する宿として有名な「郡山宿本陣(椿の本陣)」があり、東へ約1.5キロメートルいくと、「太田茶臼山古墳(第26代継体天皇陵)」などがあります。
 また、亀岡街道を北へ約0.8キロメートルいくと、中川清秀の氏神である福井の「新屋坐天照御魂神社」や古墳時代後期(6世紀後半)の「新屋古墳群」、また天平20年(784年)行基の開基といわれる「麒麟山真龍寺」などがあります。
 さらに北には、風光明媚な山地部を通り、京都府の亀山市へと続いています。


■ 交通の要衝 中河原


 また、中川清秀の石碑の近くには、中河原地区についてのこんな表札も立っていて、ここにも白井河原の合戦や中川清秀のことが記されています。
 
中川清秀、中河原④

 中河原は、佐保川と勝尾寺川が合流する白井河原から西、勝尾寺川南沿いの微高地に集落が形成されています。
 集落を東西に「西国街道」が走り、奈良時代には平城京(奈良)と九州を結ぶ山陽道(大宰府道)と呼ばれ、平安時代には平安京(京都)から九州に通じる道となり、鎌倉時代以降も貴族や高僧が、戦乱期には軍勢が往来していました。また、江戸時代には山崎道と称され、伏見と西宮を結ぶ脇街道として参勤交代の際の諸大名や役人のほか、西国33ヶ所参りの人たちが利用していました。
 一方、難波宮から長柄や吹田の渡しを経て、市内宇野辺を通り山陽道に通じる三嶋路と、丹波の亀山(現亀山市)から南進して清坂越道の2本の南北道(明治25年新設の亀岡街道)の結節点となりました。
 茨木市域内では唯一最大の合戦となった元亀2年(1571年)の白井河原の戦いで武勲をたて、戦国大名として4万400告の所領をもつ茨木城主となった中川清秀が生まれた由緒地(城州生誕説あり)でもあります。
 元和3年(1617年)福井村から分かれた中河原村は、明治21年(1888年)再び福井村に合併後、昭和30年(1955年)茨木市との合併で今日に至っています。
 もともと、当地は福井村と兄弟姉妹の関係で、人、物、文化の行き交う町として発展してきました。


 中河原地区や福井地区は、今は市内からやや離れた、田畑の中に民家集落が軒を連ねる山間部の様相を呈していますが、その昔、戦国時代から江戸時代にかけては、まさに京都から中国、九州につながる主要街道沿いの宿場町として多いに栄えた土地だったのです。

■ 中川清秀のエピソード

 中国からの大返しの後の山崎の合戦では、中川清秀は高山右近とともに秀吉方に組し大いに働きますが、戦いが終わって清秀の前を秀吉の籠が通ったとき、秀吉が籠を少し開けて「瀬兵衛、大儀」と一言、声をかけると、「猿めが、はや天下を取った気でおるわ」と聞こえよがしにいったとか、いわなかったとか。
 
 また、残念ながら、清秀の武将としての評価が必ずしも高いとはいえません。それは、やはり村重が信長に叛旗を翻したときの清秀の動きにあるように思います。
 清秀は、村重が安土の信長のところに、讒言の弁明にいこうとしたところを強く引き止めます。その清秀の抑止もあって村重は有岡城に籠もって信長に対抗しようとするのですが、その信長から攻められ、清秀の息子の嫁に信長の娘を嫁がせるという甘い餌を与えられると、一転、手の平を返し、村重を裏切って信長についたのでした。
 裏切りや叛旗が日常茶飯事の戦国時代だったとはいえ、このような清秀の動きは武将としての清廉さに欠けるもののように私には思われます。
 その後の戦いでも、清秀は大いに働きますが、その働きに比して、茨木6万石の恩賞はいかにも少ないように思いますが、それも清秀の武将としての評価に関係しているのかもしれない、などと思ってしまいます。


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こんにちわ

じい様を調べて下さって居るかたがここにも!
私は清秀末裔のものです
つい嬉しくてコメント入れさせていただきました私はアメブロにて

禅・時の旅路と言うブログをやっておりますので、良ければ遊びに来てください

清秀公を調べておられる
中川清秀本陣。太郎助さんをアメブロでお尋ねされるのも良いかもです

中川家の繋がりがも増えてきて盛り上げる為に、また謎を調べたりと中々楽しくやっております

一番私が不良なのかも(笑)
ファンの太郎助さんが一番真面目であついです

良ければ是非

2014-03-09 14:59 from

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